二葉商事のルーツ

人に歴史があったり、生い立ちが性格に表れたりするものですが、企業にもそれなりの歴史と生い立ちがあると思います。

今、三社グループ(岡本燃料、二葉商事、三星商事)のルーツを訪ねると、ちょうど創業90年になり、この節目に一度原点を探ってみるのも無駄ではないと思います。十年一昔といいますから、まさに時代的には昔々の話になり資料も紛失しているので時代考証も定かではありませんが、口伝えによるものを整理してみることにします。

創始者岡本孝吉は、秋田県佐竹藩の下屋敷(今の墨田区吾妻橋アサヒビールの所のようです)に仕官していた武士の家系に生まれましたが、廃藩置県(明治4年)を契機に出入り商人の薪炭商(榊原商店という大店)に見習いに出ることになり、その後明治33年(1900年)に薪炭商を創業しました。
これが今日、三社がエネルギー関連に従事する発端となったわけです。
しかしながら、大正12年の関東大震災で一家全滅に遭遇し、ただ1人岡本亀吉が早稲田大学の学生であり、ボート部に在籍し選手として荒川・尾久の艇庫に合宿中でこの難を逃れることができました。
後に大隈邸の火の番や、早稲田実業学校の柔道師範等をして書生生活を送り、卒業後、1年志願で軍隊生活を送り、除隊後に家業の薪炭商を復活しました。
独り立ちするに際しては、大学当局や運動部の仲間の人たちの暖かい声援もあり、開業後一番最初のお客様は早稲田大学の大隈会館であったようです。
そしてわが国の国際的孤立化から端を発した第一次、第二次世界大戦と、動乱の中にあっても店の維持に努力していましたが、再び昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲により壊滅的打撃を受け全てを失いました。

戦後、時節柄、燃料統制が行われ、配炭公団に勤務し、商売は中断の止むなきに至りました。戦後の自由化が進み、経済も立ち直る兆しが見え始め、昭和24年(1949年)統制が撤廃されるや、いち早く岡本商店として復活し、扱い品目も石炭、コークス、と間口を広げ、更に、エネルギー革命の走りである液体燃料に着目し、東西交易(後に三菱商事と合体する)との取引を開始し、墨田区に油槽基地を設け、燃料油としての重油の販売に取り組み、昭和31年に企業形態も岡本商店から㈱岡本燃料へ改組し、発展の基礎を固めました。

その後エネルギー革命は更に液体から気体へと変化を見せ始め昭和35年に東京ガス㈱がプロパンガスの販売を計画する処となり、当時東京コークス(東京ガスの関連会社)の特約店をしていた岡本燃料に誘いがあり、その第一次販売会社として名乗りを上げ、プロパンガスの販売に着手することとなりました。
従来の固体燃料とその取り扱い手段は著しく異なり、お客様の生命、財産を守る保安という観念を持つ仕事から業態の異なる仕事として、翌昭和36年(1961年)にこの部分を分離し独立会社として二葉商事㈱が設立されました。社名の由来につきましては、創業の地が本所二葉町であったこと、本来の木から枝分かれした若葉の意味からこの名がついたように思います。

これを機に東京ガスとの関わりも一層深くなりサービス店業務も手がけることとなり、江東区南砂に東京ガス南砂サービス店を開設しました。
市場の発展ときめ細かい消費者へのサービスが要求されるこの業態から、地域密着型としてサービス店部門を第三番目の会社として分離独立し、昭和44年に三星商事株式会社を設立することとなりました。当時、東京ガス関連の会社の社標には星印が多く利用されていたことと、三番目の誕生ということから三星商事という社名になりました。

そして、それぞれが今や90年、30年、20年と歴史を持つ会社に発展し、グループの強固な結びつきを持った上に、特色ある社風をかもし出し切磋琢磨しあっている現状です。
そしてその根底に流れるのは、背伸びをせず、人を裏切らず、真面目一方が特色であり、一方で新しいものへ挑戦する進取の精神と意欲は、まさに古来の武士道に似るものがあるのではないでしょうか。
企業は存続することに大きな意義があります。近代的武士道商法にご理解頂き、皆様のご協力を得ながら皆様と共に21世紀へまた飛躍していこうではありませんか。

文責 岡本昌三